1日目に足を痛めてしまい、途中から別行動を取る事になりました。
昨日のように山を歩き回る事は無く、電動アシスト付き自転車での行動となるため、幾分気を楽に持ちながら旅館を後にしました。
JR館山駅西口にある、ふるさと情報センターにて電動アシスト付き自転車を借りました。1日1500円で利用できます。
こちらの施設は3月で閉所するということですが、東口の館山売店にもレンタサイクルがあります。
駅から海岸沿いの"内房なぎさライン"を通り、海上自衛隊館山航空基地の正門にたどり着きました。
大きな埋め立て地となっているようで、道に沿って進むと鷹ノ島公園経由で沖ノ島公園まで行く事ができます。
車道を挟んで正門反対側には、旧日本海軍が利用していた大きな補給廠がありました。
米軍本土初上陸地点
鷹之島辨天閣の白い鳥居が鷹ノ島公園の目印です。
昭和6年に日本軍基地(現海上自衛隊基地)が作られる際に、一般市民が神社に立ち入れるよう基地の敷地から外されたそうです。
さらにもう少し道なりに進むと、石垣の階段と防空壕のようなものが見え始めました。 公園全体が小さな丘になっており、通路のようなものが見えたので、自転車を降りました。
林の奥に進むと、防空壕の入り口のようなものが見えました。
コンクリートの基礎のようなものがある。
何らかの建築物が埋もれている。
中を撮影してみると、自衛隊基地側に繋がっているようだ。
周りを見ていると、石垣の建造物がいくつかありました。
もしかすると、この辺りは軍事施設が建っていたのかもしれない。
鷹ノ島公園から沖ノ島公園方面に出発してすぐ、海岸沿いに軍事施設として使われていた廃墟がありました。
辺りを撮影していると、奥の建物から子猫が1匹、2匹、3匹と続けさまに出てきました。
猫1「なんだこれ?」
猫2「とりあえず遊んでみようぜ!」
狙われる機材!
三脚のストラップでじゃれていました。
手前の建物に入ると、窓から港が展望できます。 上の階からは、更に眺めがいいものと思われますが、階段等の設備はありませんでした。
写真の奥に見えるコンクリート基礎壁は何に使われていたか気になる所です。
この子が一番撮影しやすい猫でした。後で奥の建物にいるボス猫(親?)を発見することができました。
廃墟猫!
誰も管理する人が居ないためか、取り壊されす、落書きも放置されたままとなっています。
続いて、奥の廃墟に進みました。 こちらは内部も落書きが多く、猫の世話道具などもあり混沌としています。
通路の天井に、穴が多めに開いていました。採光用なのか、それ以外の何かに使われていたのかはあまりよくわかりません。
一つだけある部屋に入ると、そこは猫屋敷状態。
近くに水道がないため、効果のない猫避け風に水が保管されていました。
軍事施設に似つかない大きな窓がありました。奥に見えるのは自衛隊基地です。
外から撮影。
猫に別れを告げ、沖ノ島を目指しました。
滑走路のような整備された直線の道路が続きます。釣りをする人が、ぽつぽつと居ました。
沖ノ島前駐車場に到着。自転車を置き探索を始めました。 かつでは孤島でしたが、関東大震災の隆起と、館山海軍航空隊基地が建設されたことにより地続きになったそうです。 島の外周は1kmほどで、1時間ほどで探索ができます。
島に入って、すぐ右折し、進んで行くと炊事場らしき跡がありました。
コンクリート造の基礎と思いきやレンガ造。兵舎の跡だろうか?
近くに壕への入り口が。
中を撮影すると、分岐しており、更に奥に繋がっているようだ。
更に進むと、壕への入り口らしきものが見えてくる。
こちらは、格納庫に利用されていたようで、直ぐに行き止まりとなっていた。
中央広場から少し歩くと神社がありました。
神社の辺りに 石垣のようなものが埋もれていました。
神社の施設かもしれませんが、土で入り口が塞がれたようになっていたので、戦争遺跡の可能性もあります。
この辺りもコンクリート建築物の跡が断片的に残っていました。
島の反対側に出ると、岩場が広がっていました。
海にいる生物のレクチャーを受けている人や、海藻を採取している人、家族連れなどが、思ったより多く居ました。
現地の人たちの憩いの場となっているようです。
島の東南側海岸には、いくつかの部屋がある壕があるとの情報がありましたが、崩落していたせいか入り口らしきものを除き、発見することはできませんでした。
広場から南側海岸に出る途中の道で、別の壕の入り口を見つけました。
一本だけ木が外れていたので、内部の写真を撮影すると、こちらも直ぐに曲がり角がありますが、続きがあるような感じになっていました。
位置的に、先ほどの入り口と繋がっている大きな壕になっているのかもしれません。
そのまま石畳の歩道を進み、島を出ました。
自衛隊基地まで戻り、近くの中華料理屋さんの「富士見亭」に入りました。
この近辺、食堂があまり無いので、食べログで「ここの広東麺を超えるものに出会った事が無い」とコメントがあった広東麺を注文。
タクシーやトラックの運転手の方々が昼の常連さんのようです。
どうやら広東麺の他にもチャーハンが人気の模様です。
同行人の焼き肉定食を作っている所を撮影させて頂きました。
広東麺です。野菜が多めで、最近あまりお目にかかれない卵麺で仕立てられています。
あっさりとしたスープで、特筆すべき点はあまりありませんが、美味しく頂けました。
富士見亭の隣に海上自衛隊の集合住宅がありますが、さらにその隣の通路に、コンクリートの柱がいくつか建っていました。 自衛隊前の道路は、物資運搬用のトロッコが走っていたようなので、こちらも戦時中に物資を運ぶための何かに利用されていたものと思われます。
続いて、海上自衛隊基地の近くにある、赤山地下壕に行きました。
受付は市民プール近くの、豊津ホールで行われています。
建設は極秘に進められたため、記録が残されていないようですが、要塞として使われており病院や格納庫などの施設があったそうです。
入場料は200円で、ホール入り口にある券売機で支払います。
ヘルメット(とその下にかぶる紙製の帽子)を装備します。
懐中電灯の貸し出しがありますが、出力が弱いため持参をお勧めします。
壕の入り口に行く途中、別の入り口がありました。赤山壕の入り口は1つだけでなく、何カ所もあります。
入り口から入ると、広い空間が広がっていました。こちらには発電機が置かれていたそうです。
右に曲がると
奥の狭い通路に向かいます。
張り巡らされている電灯の明かりで、コケが生えていました。
当時の日本海軍が1930年代後半から終戦まで建設した施設です。
「合わせた長さが1.6kmもある、ずんねぇ(大きな)地下壕だぉ~☆」 (ダッペエブログより引用)とあるように、かなり広いです。
荷物はホールに預ける事ができるので、三脚とカメラのみを持って入りました。
撮影をされる方は三脚を持って行く事をお勧めします。
地層模様が見える部屋です。 電灯がついていない部屋もあるので、照らしてみることにより模様が浮かび上がります。 天井が高い部屋ほど、観察しやすかったです。
奥に続く通路。影で分岐している様と深さが分かります。
五右衛門風呂
反対側出口
封鎖されている。奥に別の壕の入り口と思われる跡が見える。
反対側。扉があったようだ。
頭をぶつける事3回なんとか生還を果たしました。
市民プールの駐車場の反対に、深さ25mほどのトラックを入れる事がでるような壕がありました。
記録によると、こちらは魚雷格納庫だったようです。
特に封鎖されていませんが、何らかの物資の置き場所として利用されていました。
更に、この道路を進んで行くと、赤山の壕の別入り口が数カ所確認できました。
場所により、物置として活用しているようです。
完全な私有地なので、奥に入る事はできませんでしたが、封鎖されていないため、壕の中に入る事もできそうです。
足を痛めた為、別行動にて、当初の予定になかった波左間港に来ました。
バス停のすぐ近くに、住民のための防空壕が塞がれずに、残っていました。
手前と奥の穴は繋がっているようですが、土砂が入っており中に入る事はできませんでした。
バス停から港方面に行くと、港が広がっていました。 写真中央すこし右側にある、海から出ている黒い物体は、小型ボートに爆弾を搭載して体当たり攻撃を行う兵器「震洋」を海に突入させるための発射台の杭の部分です。 残念ながら満潮だったため、本体を見る事はできませんでした。
波左間漁業協同組合の裏に、山を削りとったような跡がありました。
戦争遺跡かどうかは不明です。
偶然発見した海中観光船が、偶然にも出発時間が近かったので、乗ってきました。
海中観光船 たてやま号
中は非常に快適で、雰囲気を演出するためか音楽がかかっていました。 ガイドさんは居ませんが、時折運転室のおじさんが、魚のいる位置を教えてくれました。
こんな魚がたくさん居ました。私の他の客はカップル1組だけだったため、移動が自由にできました。
不気味なくらいに鮮やかなトラウツボが、海藻に隠れていましたが、シャッターチャンスを逃してしまいました。
船を降り、ふと海岸側を見ると人工的に掘られた穴のようなものが見えました。
「震洋」の発射施設も近いため、軍が利用していたものだと思われます。
何かを奉っていたような台座が見えます。
さらに近づくと、海から漂着したゴミが散乱していました。 奥の方に進めそうでしたが、懐中電灯もなく、一人であったため断念しました。
穴がどこかに続いているかもしれないと、丘の裏側に回った所、別の入り口を2カ所ほど発見することができました。
この位置からは海を見る事はできないので、連絡通路が通じていたものと思われます。
波左間を出ようとすると、別行動グループから、要塞のようなものを見つけたという連絡がありました。
合流すると、東京湾要塞第区地帯標がありました。
この辺りだけ、ぽつりと山があるので探ってみたところ、いくつかの壕と旧日本軍の石票がありました。
山には幾つかの壕の入り口がありました。
石票が正しければ、こちらも要塞として利用されていたことが伺えます。
梅のような木が植えられていました。こちらの入り口は上部が開いていたため、中を撮影しましたが、それほど深くなく、倉庫に使われていたのか、あるいは封鎖されてしまったようです。
人工的に土が盛られているような感じになっている箇所があったので、上ってみた所、別の入り口を発見しました。
意図的に封鎖されたものと思われますが、他の場所にも入り口があるのではないかと思われます。
帰りは館山駅発東京駅着の高速バス「房総なのはな号」を利用しました。
館山市としては、これらの遺跡に関してはアピールするつもりはないようでした。 現地のNPOの方々が、観光資源化に注力しているようですが、既に私有地となっていたり、崩落の危険があるなど難しい事が伺えます。 しかしながら、終戦して60年あまり経ちますが、要塞の施設は比較的綺麗で、整備されていないのが嘘のようでした。
今回は2日に渡って千葉県南房総市・館山市の戦争遺跡を巡りましたが、時間が厳しく主要地点のみとなってしまいました。 紹介した遺跡以外にも、確認されているだけで50以上の遺跡が眠っています。 既に崩落が始まっている場所もあるので、興味をもたれた方は出来るだけ速く行ってみてはいかがでしょうか?
館山駅近くにあった顔抜きを発見してしまったので、記念にパシャリ。
出来る限りいやらしい顔をするのが秘訣です
まりもっこり(公式な情報ですので安心してご覧下さい)の兄弟商品ですが、ストラップは販売しておらず、この顔抜きも隅っこに追いやられていました。
参考 安房文化遺産フォーラム
写真提供 ありの木様
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探索日 2012_02_04-05
レポート初公開 2012_02_29